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宇留野城(大宮町宇留野)

 宇留野城鳥瞰図。西方上空から見てみた。東側の久慈側脇の湿地帯に臨む比高20mほどの台地の先端部を利用した連郭式の城郭である。城の西側には谷津が入り込んでいるため、城のある部分は細長く、独立性が高くなっている。
 先端の日向神社のある郭が御城と呼ばれ、1郭にあたると思われるが、ここはたいして広くなく居住性に乏しい郭である。実際には中城と呼ばれる2郭が城の中心的な郭であったろう。しかし、ここは現在廃車置場になっており、柵があって中に入れないようになっている。そのため現状を把握するのも難しい。遠めに土塁があるのが見えるくらいである。
 その北側が3郭となるが、ここも居住性の高い空間ではなく、馬出しのような機能を持った郭であったかもしれない。
 城の主な郭はこの3つで、規模はそれほど大きなものではなく、少なくとも戦国期には拠点的な城郭ではなかったという感じがする。
 「城郭体系」によると谷津を挟んだ西側にも郭が構成されていたらしい。こちら側にも4郭ほどがあったということであるが、早くから開発が進んでいたため、遺構はほとんど残っていない。場所によっては土塁や空堀の跡かと思われる部分もあるが、旧状を十分に把握することはできない。





 (以下は以前の記述で先の記述と重なる部分もあるが、面倒なのでそのままにしておく)
 宇留野城は久慈川の西岸、現在日向神社のある比高20mほどの台地上にあった。台地の北部分は御城、中城、外城と呼ばれる三郭が南北に連郭式に連なり、各郭は空堀によって区画されている。浸食谷を挟んでその西南にも四郭ほどあったというが、こちらは宅地化されているので、かなり破壊されてしまっているが、所々土塁が残っているようだ。
 宇留野城は平安時代の天禄年間(970年頃)からあったと言われ、鎌倉時代の文書に登場する宇留野氏の居城であったといわれる。その後佐竹氏14代の義俊の子がこの地を領し、宇留野氏を称するようになったとも言う。部垂の乱では宇留野城主の宇留野義元が部垂城を中心に佐竹本家に反乱を起こしたが、12年の後に鎮圧されたという。城はその後も存続したようだが、後、佐竹氏が秋田に転封されると例によってこの城も廃城となった。
 宇留野城の位置はJR常陸大宮駅の東南1kmほどで、栄町というバス停の所から、行尊寺の北側を通ってまっすぐに入っていくと、突き当たりに写真のような空堀が見える。これは三郭(外城)と二郭(中城)との間の空堀である。下が埋まっているのか斜面はそれほど急ではない。よく見ると脇に案内板や、城址碑が建っている。この手前の道を右側に進んでいくと左手が中城になる。ここが宇留野城では最も大きな郭である。ここは廃車置き場になっていて、柵が張ってあるので中には入れない。しかし土塁が周囲を取り囲んでいるのが見える。更に道を進んでいくと、御城がある。ここが主郭であり、日向神社やいくつかの小さな神社の建物がある。直径20mほどの円状の郭であまり広くはない。中城との間には幅5m、深さ2mほどの小規模な空堀が巡らされている。外郭との間の浸食谷は深さ20mと深くなっており、部分的に腰曲輪のような遺構も見られる。斜面を削り落とした際にできたものなのであろう。宇留野城の各郭の堀切はあまり堅固なものとは言えないが、比較的よくまとまった城で、遺構の保存状態も良好である。




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