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額田城(那珂町額田)

 

 額田城は、佐竹氏5代の義重の次男義直が鎌倉初期に築城し、額田氏を名乗るようになったものだという。その後額田氏は山入一揆に参加して、後に佐竹氏に滅ぼされるが、今度は小野崎氏がこの地に入り再び額田氏を称した。戦国期には石神城の石神氏と佐竹一族内での争いがあり、石神氏を滅ぼしたりしている。その頃佐竹氏の肝煎りで城の大改修も行われたものらしく、額田城は城下集落をも取り込んだ外郭分に城塁を複雑にめぐらせた台城郭となった。1,2,3郭とその周辺の堀はほぼ完存しているが、外郭部の堀は、現在かなり埋められてしまっている。が、図の「残存」とある辺りを中心に、わずかながらも痕跡が見られる。城域は東西、南北ともに1kmほどあり、広大である。
 額田城に行くには県道62号線の額田幼稚園の脇から入っていくのがよい。三郭の土塁や堀が見え、さらに進むと二郭がある。土橋を渡ってさらに進んでいくと、空堀を降り写真の土手道を登って主郭に到達する。
 3郭の(あ)の西側辺りに城址を示す標柱が建っているのだが、その脇に駐車場らしきものがあり、ここに車を留めることができる。ここは個人の所有地のようだが、額田城を見に来る人のために場所を提供してくださっているらしい。
 額田城の各郭は深さ7,8mほどの深い堀によって区画され、要所要所に土塁も配置されている。特に1郭は空堀の外側にも土橋が配置され、敵の侵入を2重に防げるように工夫されているが、これは石神城とよく似た構造のものである。規模も雄大で、戦国期に佐竹氏によって拡大されたものである。1郭の堀内部には何ヶ所かの湧水点があり、空堀内にはあちこち水がたまり、水堀のようになっていた。越後ノ丸殿が見たら喜びそうだ。


 (あ)の辺りの堀跡。「額田城跡」の標柱の辺りから西側を見た所である。堀は畑となり、深さは数m程度のものだが、幅は20m近くある。1郭と阿弥陀寺のある郭との間には自然の沢が入り込んでいるが、その中に湧いた水を、往時はこの辺りまで取り込んでいたと思われる。

















 2郭虎口(い)の土橋を3郭から見た所。両脇は深さ6,7m、幅10mほどの堀となっている。この虎口には軽トラックを通すために広げられた跡がある。もしかすると、後世造られた土橋なのかもしれないが、左手には横矢が掛かった構造もあるので、一応、往時からあった虎口と見ておく。2郭は最大幅で90m×200mほどある。

















 1郭の登り口(う)。1郭に現在見られる虎口は、堀底にいったん下って、それから写真の1郭の塁上を斜めに登っていく構造となっている。土橋はないが普通だったら、どこかに木橋でも架けそうなものだが、それらしい場所もこれといって見あたらないので、とりあえず、これが旧状のままであると考えておく。いったん堀底に下りるなど、面倒くさい構造だが、1郭の塁上を斜めに登っていく間に、郭内からの攻撃にさらされることになるので、防御的にはかなり有効な構造であるともいえる。
 1郭のこの角を、どの縄張り図でも「櫓台」としているが、郭内からの比高はなく、段のある高さにはなっていない。通常、この状態を櫓台とは言わないだろう。あるいは削られてしまったのか。











 虎口周辺の堀。この辺りに湧水点があり、水が湧いて流れている。かつて真夏に来た時にも1郭堀には水が残っていたので、どんな時期にもこの泉は枯れたことがないのであろう。

















 1郭虎口への登城道。右側が1郭の城塁だが、よく見ると道が着いているのがわかるだろうか。この道を上がっていく途中は城塁から丸見えで、攻撃の魔の手にさらされることになる。ただし、上がっていった所には工夫の見られる虎口はない。
 1郭の堀は特に深く、深いところでは10mほどある。幅も10数あり、これを掘るためには、かなりの人員が動員されたことだろう。1郭は各所に横矢が掛かる複雑な構造となっている。
















 1郭の堀(え)。1郭の西側にはこのような堀があり、その向こうに土橋があって障壁となっている。さらにその西側には天然の沢が入っており、ここもかつては沼のような状態であったかと思われる。城の南側には、現在は水田となってしまったが、かつては有賀池と呼ばれる広大な沼があった。















 横矢が掛かる1郭の塁上(お)。このように1郭塁上は何ヶ所かに横矢を掛け、多角雑形の複雑な形態となっている。1郭は最大幅で150×130mほどの規模である。


















 (か)の2郭虎口を3郭側から見た所。この両脇も深さ6m、幅8mほどの堀になっており、城内側には水が残っている。ただし、ゴミがたくさん捨てられているのが悲しい・・・・。
















 3郭外側の堀(き)。3郭の堀と土塁はゴミや宅地造成で、自然に埋まりつつあるが、この辺りはなんとか旧状を維持している。ちなみに外郭部の堀は、地元の方のお話によると、戦時中までは、ほぼ旧状通りであったらしいが、1950年代に宅地化と畑地化が進んで、相当の部分が埋められてしまったという。
















 阿弥陀寺脇にわずかに残る土塁と空堀(く)。この辺りだけかろうじて残っているが、ちょっと埋めてしまおう思えば、簡単に湮滅してしまうであろう。













 阿弥陀寺。この寺院の建つ広大な土地もかつては主要な郭の1つであった。4郭とでもいうべきか。西側の堀はかなり埋められてしまっているが、所々にかろうじて残存した部分が見られる。東側は天然の沢を利用した堀となっているので、こちら側は旧状通りであろう。
 阿弥陀寺は、鎌倉時代の健保4年(1214)、親鸞聖人によって那珂西郡大山の地に道場が営まれたのに始まるという。かなり歴史の古い寺院であるが、現在の地にいつ移ったのかはよく分からない。寺院の本堂も、変わった構造をしいるが、何かの施設を貰い受けて転用したもののように見える。










 引接寺(いんしょうじ)脇にわずかに残る外郭の土塁と堀(け)。大部分は畑地造成で埋められ、この辺りだけがかろうじて残存している。深さ4m、幅6mほどの規模である。
 引接寺は、元禄年間、水戸光圀公の命によって建立されたものであるという。この寺院には、とんちで有名な「たっつあい」(大山達才)の墓もあるという。












 北側外郭部にわずかに残る堀と土塁(こ)。外郭部北側の堀も、ほとんど残っていない。手持ちのいくつかの縄張り図によると、額田小学校の北や南にも、残存部分があるかのように描かれているのであるが、現在ではその辺りも埋められてしまったようである。写真の部分は民家の敷地内となってかろうじて残っているものである。それでも大分埋められているようで、深さ2m、幅6mほどである。



















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