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茨城県那珂市(旧那珂町分)

*那珂市の城館については「中世の城館と文化財保護」(『那珂町史の研究』所収)を参照している。
*那珂市の城館、特に平城群は独特の特徴を持っている。方100m内外の中心郭を拡張し、二重三重に堀と土塁をめぐらせて環郭式の構造となっている。堀には池などから水路を引いた跡が見られ、その関係で通常の空堀よりも複雑に組み合わされ、また城主と水利との因果関係が考えられる。そして城主の名前まで分かっているものも多い。今回まわってみて、この地域の城館の特殊性が良くわかった。(そりゃ30城以上も回ればわかってくるわな) このような城郭群が大量に残っているのは全国的にも珍しいと思われ大変貴重であると思うが、平城ゆえに、その多くは一部、あるいは全部を破壊されている。早急に保存のための手立てを打ったほうが良いと思う。那珂町の方、これを読んだら遺跡について少しでも考えてみてください。

*関連サイト  北緯36度付近の中世城郭  埋もれた古城

 

稲荷山館(那珂市鴻巣字稲荷山)

 稲荷山館を再訪してざっと図化してみた。以前来た時には「ほとんどヤブで進入不可だ」と思った印象があったのだが、今来てみると、なんというか藪が少なくて歩きやすい山林である。前回来たのと同じ時期で、山林そのものも変化していないと思われるので、要するに印象の違いは、自分のその後の体験によるのであろう。慣れというのは恐ろしいものである。
 水郡線と交差する辺りから遺構が始まっている。しかし、現状では、城館としてのまとりまりが欠けており、本来、どういう形態をしていたのは理解しにくい。那珂町には数多くの平城が存在していたが、そのほとんどには城主の伝承が残っている。にもかかわらず、ここにはまったくそのような伝承が存在していないという点でも異色であり、もしかすると城館ではなく、ただの水路遺構の可能性もないわけではない。
 城館だとすると、主郭にあたるのは1の部分であろう。この部分の東側には二重の堀の跡があるのだが、深さ1.5m、幅3mほどと、那珂町の平城の主郭部分の堀とほぼ同程度の規模を持っている。北側の角が小郭状のスペースになっているのはあるいは馬出しの一種であったかとも見える。ただ、この部分も、明確に堀状になっているのは東側だけであり、その他の三方向については、明確に郭の形状をトレースすることはできない。それにしてもこの部分の二重堀はなかなか見事な遺構であり、これが主郭であったとすると、そうとうの部分が後世埋められてしまったものということになるであろう。
 驚くべきなのは、この部分、現在でも滾々と水をたたえているということである。藪の中に水堀が残っているさまは荘厳ですらある。水は藪の中で意外にも濁っておらず、わりあいと澄んだ水である。この辺りに湧水点があるのであろう。
 次に郭らしきまとまりを見せているのが2の部分である。2の周囲には東側を除いて、三方を囲むようにして堀が巡らされている。木の葉などでかなり埋まっているようで現状では浅く見えるが、底を歩いていると、ズボッと靴が沈んでいく。底の方はかなり湿気を持っているようであり、少し掘り返せば水が湧いてきそうな雰囲気である。堀の規模は加藤安房守館の周囲にあるものなどと同程度で、この地域の平城に見られるものとほぼ同規模である。防御のためというよりも、水路そのものに意味があったのではないかと思われる。
 2郭の南側の堀は2ヶ所の縦の堀によって、さらに南側の堀と接続している。この辺り、一部土塁が見られるが、虎口の名残か何かであろうか。
 1郭の東側の二重堀のさらに東側に、浅い二重の溝によって囲まれた3の部分がある。この図では分かりにくくなってしまっているが、3の西側と北側は細長い二重の溝である。この部分、「那珂町史の研究」の図でも、堀跡のように描いているが、実際にはただの根切り溝である。一応、図化してはみたが、3の部分は、遺構としては除外して考えなければならない。 
 このように部分的には充実した遺構を持っている稲荷山館ではあるが、他の平城のような形状を復元できない。したがって現状の遺構を見るだけでは、本当に城館であったという確信は持てない。だが、主要部分のいくつかが埋められてしまっているのかも知れず(あるいは築城途中で放棄されたという可能性も検討できるかもしれないが)、きちんと復元できれば、相応の規模の城館の姿をよみがえらせることもできるのかもしれない。
 なお、城内には稲荷は祭られておらず、「稲荷山」という語源の意味するところも不明である。しかし、かつてはこの中のどこかに稲荷が祭られていた時代があったのであろう。

水郡線の線路脇から見た稲荷山館。右側奥の山林の中に堀が巡らされている。 2の西側の堀跡。だいぶ埋まっているが、歩いているとじめじめと足が沈み込んでいく。かつては水堀だったのであろう。それにしても堀はヤブがなくて歩きやすい。
これは驚いた! 1の部分の東側には今でも水をたたえた堀が二重になっている。この辺りが一番、城館らしい部分である。 1郭北東角部分の水堀。幅は2mほどだが、これだけ水があると、渡るのはちょっと無理である。
(以前の記述)稲荷山館は、鴻巣の2800番地辺りの所にある。城址の南側を写真の水郡線の線路が通っている。稲荷山というわりには稲荷もないし、山でもない。右手の山林の中に遺構がある。山林の中に深さ1m、幅3mほどの堀が縦横に通っており、数郭があったと思われる。しかし一部破壊されているようで、全体像はつかみにくい。この辺りの城館の構造からすると、ここも2重の堀をめぐらせた環郭式の平城と思われるのだが、はっきりしない。現況では中央の方60mほどの郭(北側は二重堀になっている)の東側と南側に、同様な規模の郭を配した3郭構成に見えるが、かつてはこれら全体を取り囲む外郭部が存在していた可能性が高いと思われる。この線路の左側には「中丸」という字名が残っているが、遺構は見られない。
 城主等歴史は未詳。




内後館(那珂市戸崎字内郷)

 県民の森の熱帯植物園の辺りから北東側に入っていく道を進むとすぐに、西側の土塁が見えてくる。この土塁から東側が館の範囲であると思われるが、この土塁は、東側、すなわち郭内側の方が深さがある。つまり、この土塁の西側が堀だったのではなく、土塁の東側にかつては堀があったのだと思われる。注意してみてみると、土塁の東側にも段差があるのが分かる。郭内側の土塁を崩して堀を埋めた名残であると思われる。
 さらに北東側に進んでいくと、館の北東の角の土塁が目に入ってくる。この部分が唯一、往時の状況を偲ばせてくれるものであり、堀の深さ3m、幅4mほどあるが、かつてはもっと規模は大きかったであろう。この部分も間の土橋から南側は取り払われて消滅している。、また道路沿いの部分は、ブロック塀の敷設によって失われてしまっている。
 遺構はこれだけで、ざっとみて単郭方形のものであったと思われる。しかし、南側の城塁部分は、まったく失われてしまっているので、その規模ははっきりしない。。100m四方くらいはあったであろうか。








西側に残る土塁。この左手の方が低くなっているので、この土塁はかつての堀の外側にあったものだと思われる。堀部分はすっかり埋められてしまった。 東側の角に残る土塁と堀。この部分だけが唯一、往時をしのぶことができる部分である。
(以前の記述)内後館は、茨城県民の森のすぐ東側に隣接した平地にあった。戸崎郵便局の北200mの辺りである。館跡と思われるところは現在工事中で、土を積み上げていた。一瞬、土塁の復元工事かとも思われたが、少し違うようだ。そのすぐ脇に写真のような土塁が残っている。これが遺構なのかもしれない。
 内後館は内子館・戸崎館ともいい、戸崎弾正という者の居館であったという。




江戸城(那珂市下江戸字城の内)

 江戸城は、県道61号線の「小場入口」というバス停のすぐ南側にそびえている比高30mほどの台地上にあった。「下江戸」交差点からバードラインを東に入っていくと、墓地があるが、この墓地の所から上がっていくことができる。墓地は「秋山姓」が多い。また「小貫姓」も多く見られる。この地の豪族となんらかの関係があるのだろう。台地を上がると一軒分だけ独立した墓地がある。何か特別な人の墓なのだと思われる。(城主とのゆかりとか・・・・・)やはり秋山姓である。しかも墓碑銘には「秋山家奥都城」とある。城と何かの関係があるのだろうか。そういえば以前に真壁町の谷貝城を訪れたとき、城内にある墓地に「稲穂奥戸城」と書いてあるものがあった。「奥戸(都)城」という言葉には何かの意味があるのだろうか。ちょっと気になる。(しかし後日、これは神道系の人の墓碑銘としてよくあるものだということを知った。「おくつき」と読むそうである。城がついているので、ついつい城郭と関係があるものかと思ってしまった。まったく城バカ・・・・)
 この秋山家の墓地の奥が城址のようであるが、山林化している。城址の方へはもう1本東側からも入っていく道がある。軽トラックならなんとか突き進んで行けるような道である。この道を進んでいくと、途中虎口のような所や写真のような切通しがあり、左手の上に5mほど高く、郭と思われる平坦地があるのが分かる。その辺りが城址の中心部分であろうと思われる。
 江戸城は江戸氏の発祥の地として知られる。南北朝時代、佐竹氏に対抗し南朝に属した那珂氏は、南朝方の敗勢とともに没落し、一族自決したが、なぜか通泰一人だけは生き延びた。佐竹氏との関係があったからではないかなどと言われているのだが、通泰は後に足利方の高師泰に属し、石見国鼓崎城攻めで功績を挙げ、恩賞としてこの下江戸の地を拝領した。彼が江戸姓を名乗るようになったのが、江戸氏の始まりというわけである。嘉慶元年(1387)、江戸通高は、小山義政の遺子若犬丸と小田氏が協力して挙兵したとき、鎌倉公方として出陣して討死した。その功績で江戸通高の子通景は常陸国守護代を仰せ付けられることとなる。かれは現在の水戸市域を新たに得て、水戸の河和田城に本拠を移した。以後、江戸氏は河和田城、水戸城を本拠として勢力を伸ばしていくこととなる。


江戸楯の内(那珂市下江戸字楯の内) 

 江戸楯の内は県道61号線の「下江戸上圷」というバス停のすぐ南側である。楯の内は「館の内」が転化したものと思われ、中世の居館があった場所だと思われる。那珂川に臨む比高10mほどの西側に突き出した舌状台地の先端部で、下の低地jからの比高は10mほどあり、断崖となっている。方100mほどの三角形の土地である。情趣等未詳であるが、江戸城の平素の居館か、あるいは江戸城が築かれる前に何者かの館があった所ではないかと思われる。



大内館(那珂市大内) 

 大内館は、県道102号線の「掛越」というバス停の東側の比高5、6mほどの低い台地上にあった。大地の北側は低地となり、ここは現在水田となっているが、かつては泥炭堀であったろう。県道と台地との間には幅6mほどの窪んだ水田がある。水堀の跡であろう。坂を上がっていくと個人の宅地のようなので、がさがさ歩き回るのは控えたのだが、宅地の左手には幅20m、高さ1.5mほどの土塁がはっきり見える。これは明らかに遺構であろう。森の中を探せばもっと遺構があるはずだが、今回はそれ以上はやめておいた。
 大内館は佐竹義貞の弟、佐竹義高の居館であったという。













小堤館(那珂市額田南郷字小堤)

 小堤館は、県道172号線の「額田坂下」というバス停の北西300mの所にある。「茨城県遺跡地図」では麟勝院という寺院西側が館跡になっているようだが、こちらは畑地で遺構らしきものが見えない。麟勝院の西側には土塁があり、こちらが館跡なのかと思う。東に突き出した比高10mほどの台地の先端部で、北と南には谷津が入り込んでおり、台地続きの西側に土塁を配備している。この土塁は比高1m余りの低いものだが、200mほどの渡って南北に連なっている。墓地の入口には写真のような虎口状になっているのだが、これはあるいは車道を通すために改変されているかもしれない。また、寺院の北側の谷津は、下が幅25mほどの水田が続いており、これが堀の名残のように見える。ただし、土塁が低いことや、寺院のある台地の斜面が削りたてたような急峻なものになっていないことなどから、中世前期の館跡のように思われる。城主等詳細は未詳。
 寺院の本殿の北側には樹齢500年の杉がひっそりと立っている。










掛札館(那珂市町飯田字寄居)

 掛札館は、飯田寄居館ともいい、県道315号線と、バードラインとが交差する「沖田」の交差点の東北600の所にあった。一条院という寺院の東300mの所である。平地の居館で、宅地と水田になっている。一部ガサが残っているが、土塁か何かの跡なのかはっきりしない。宅地の周囲は水田となっているが、これも堀の跡という感じではない。耕地整理の際に失われてしまったのか。
 城主は江戸氏家臣の掛札駿河守であったという。しかし、後に額田氏に攻められて落城したという。



柏村越前守館(みの内館・那珂市菅谷)


 柏村越前守館は、「みの内館」とも言い、JR水郡線の「中菅谷駅」の南西400mの所にあった。「みの内」は「箕の内」で、城郭を示す言葉である。
西側に突き出した微高地上で、台地の縁に沿って小川が「くの字」型に流れている。この地域は古くから開発が進んでいたようで、だいぶ以前から遺構は破壊されていたらしい。現在は「みの内団地」ができており、遺構は完全に湮滅した。
 館名が示すとおり、柏村越前守という者が城主であったと言う。柏村氏の系図によると、柏村氏はもと播州の出身で、どういうわけか、この地に来て箕の内館を築いて定着したという。その後、天正年間、宍戸合戦で柏村の当主は討死したという。柏村家には髪の毛と血染めの甲かたびらが残されているというが、これはその合戦での戦死にまつわる遺品であるとも考えられる。当主が死亡した後、残された子供たちは帰農したという。しかし、帰農したのは宍戸合戦の時というよりは、天正18年、江戸氏が滅びたときに殉じたものと考える方が自然かもしれない。
 後、慶長年間になって、徳川家臣の伊奈備前に請われて、この地を譲ったという。伊奈備前はここに、初代水戸藩主の武田信吉の館を造営した。しかし、信吉は早世してしまい、その後伊奈備前の陣屋が置かれた。さらにその後には稗蔵が建てられたという。現在は城の跡も、陣屋の跡も、稗蔵の跡も何にもない。








加藤安房守館(鷺内稲荷山館・那珂市菅谷字鷺内)

 もう何年も前の事になるが、初めて那珂町の平城めぐりをした時に、最初に訪れたのがこの加藤安房守館であった。図にしてみるとこれだけにしかすぎないのであるが、図面もなく最初に歩いた時には、藪の中に次々と現れ、複雑に組み合わされているかのようなこの堀の配置に、当時は驚いたものであった。これによって、那珂町の平城の特徴的な構造についての初体面となったわけであるが、しょっぱなから、「この町の平城はちょっとちがうぞ」と感じさせるだけのものがあったことをよく覚えている。
 図の1が主郭というか居館のあったところであると思われる。一辺が60mほどの方形の区画であるが、北側には折れが見られる。寄居城や宮田掃部館では北東に折れが見られたので、一見して鬼門除けであろうかと思われたのであるが、この館では折れ方が逆になっているので、いわゆる鬼門除けではなさそうである。横矢折れ構造と言う事であろう。ただ、折れている部分が短いので、実際に横矢の効果がどれだけあったかについては疑問も残る。西側の稲荷の祠に接続して土橋が見られるが、全体として土塁もなく、どこが本来の虎口であったかどうかもよく分からない。
 基本的な構造としてはこの1郭を中心に2郭が取り囲み、その2郭の周囲をさらに堀が巡ると言う構成になっていたようである。堀は深さ2m、幅3mほどであり、それほど大きなものではないが、底は現在も湿っており、かつては水堀であった様子が伺える。この堀に接続するかのようにさらに細い溝のような堀が縦横に配置され、3,4,5,6といった区画も形成されている。これらは、すべてが城の堀というよりは、北東部の池から水路を引いて、生活のために利用したもののように思われる。「平地の水利権を所有した領主の居館」ということを如実に示すものであろう。
 3は「鷺内会 健康農園」となり、また5の南側は宅地化され、東側の鷺内不動尊の辺りもだいぶ堀が埋められてはいるが、全体としては、遺構は完存に近い。こうした平城で、これだけの遺構が破壊されずに残っているのはきわめてまれなものであり、貴重なものではないかと思う。ここにかぎらず、那珂市内の平城には奇跡的に破壊を免れているものがいくつもあるが、逆に破壊されてしまっているものも多い。まだ遺構が残されているうちに、こうした城館の保存の手立てを打ってほしいものだと思うばかりである。
 歴史等については下の以前の記述を参照してほしい。






加藤安房守館の堀。深さ1.6m、幅3mほどである。この時は雪がけっこう残っていた。
雪がないとこんな状態。それほど大規模なものではないが、しっかりと掘り巡らされている。
1郭の西側にある稲荷の祠。 かつて東側にあった池の跡。現在は水田となっている。
(以前の記述)加藤安房守館は、鷺内稲荷山館とも呼ばれ、鷺内の不動堂のすぐ西側一帯であった。4郭ほどを配した平城である。山林化してはいるが、山の中は比較的歩きやすく、遺構もよく残っている。中心と思われる郭は方60mほどで、周囲には土塁があり、横矢が掛けられているような屈曲部分もある。堀の深さは現況では1m、幅は3mほどである。その周囲を環郭式に2郭が取り囲む。2郭には何かの祠がある。
 那珂町にはこのような方形館が多いが、環郭式に二重、三重に堀が取り巻いているのがよくあり、この地域の城館の特徴であるかと思われる。2郭の堀の規模も同様で、幅4mほどと(写真)、郭の構造が複雑な割には規模は小さい。もともと単郭の居館だったものを、時代と共に拡張していったものなのだろう。2郭の土塁は一部しか残存していない。堀の浅さと考え合わせて見ると、土塁を崩して堀を埋めた可能性もある。
 2郭の南側にはまた同様の堀を隔てて3郭がある。山林の中にはさらに堀で区画された数郭があるかもしれない。外郭部も合わせた規模は方120mほどになろうか。東側には池があり、ここまで堀が続いている。この池の水をかつては堀に取り入れていたらしい。
 城主は館の名の通り、加藤安房守である。「水府志料」では天正年間、加藤安房守は宍戸の戦いで討死したとある。天正3年(1575)、佐竹氏は北条方の宍戸氏を攻撃するために、戦を行っている。(「水府系纂」「佐竹大秘録」)加藤氏は、佐竹配下の江戸氏に属した一武将としてこの合戦に参加したものと思われる。




門部館(那珂市門部字台)

 門部館は県道104号線の「木崎郵便局」の向かい辺りの台地上にあったらしい。ここには今、城門と白壁をめぐらせたような立派なお屋敷が建っているが、城郭的な遺構は見られない。あるいは屋敷の敷地内に何かあるのかもしれないが、ちょっと足踏みしてしまう。片岡美作守という者の居館であったと言われる。



神生館(那珂市本米崎字海後)

 神生館は、那珂町の東端近く、久慈川に臨む比高20mほどの台地の先端部にある。三島神社のある辺りが館跡であったらしい。神社のある台地は東側に細長く突き出したものなのだが、北と南の斜面はかなり急になっている。神社の脇に土の高まりが見えたので土塁かなと思ったのだが、これは写真の「海後加納古墳」というものであった。ただし、物見台として使用されていた可能性はある。
 三島神社の創建は不明であるが、古くは加納神社と呼ばれ、寿永年中、佐竹氏の祈願所となり、毎年ここで流鏑馬を行っていたと言う。天正年中には額田城主小野崎氏が戦勝を祈願して社殿を修復している。またこの神社の社家は幕末の浪士海後磋礒之介の生家であるという。
 神社の鳥居の脇には、推定樹齢800年という椎の木がある。800年といえば、まだ平安時代である。この木はその頃から歴史を見ていたのかと思うと遠大な気分になる。その他にも、境内には古そうな木が何本も鬱蒼と立っている。









北酒出城(那珂市北酒出字関内)

 北酒出(さかいで)城は、木崎小学校の東南600mの、比高15mほどの台地上にある。県道104号線を菅谷方面に南下していくと、信号を過ぎ、小川を渡って北酒出地区に入る。この時、右手前方に見えている台地が城址に比定されている。台地上は平坦になっているが、民家の奥の写真の畑地が城址と言われている。畑地を造成する際に、かなり改変されてしまったらしく、遺構はあまり見られない。しかし、台地先端部の写真の古墳は良く残っている。これは瓢箪塚と呼ばれている古墳なのであるが、城内の物見台として用いられていたらしい。この古墳の北側は削られた斜面になっている。その他には、畑地の南西側に、低い土手が見られ、その外がわに空堀的な窪みが見られるが、はっきりしない。城の歴史がはっきりしている割には、遺構がよく分からない城である。先日降った雪が溶けた関係で、畑を歩くとどろどろである。すっかり、靴に泥がへばりついてしまい、歩きにくいことと言ったら・・・・・・。
 城址のことを地元の方に尋ねると「町史の関係の方ですか?」と言われたのだが、こちらは町史どころか、はるか千葉県から来ているのである。「何のためにこんなことしてるんですか?」と聞かれても、なんとも答えようがない。しいて言えば、「そこに城があるから」ということになろうか。
 北酒出城は、佐竹氏の4代秀義の五男助義が、築いたものと言う。助義はこの地を与えられ、北酒出氏を名乗るようになった。その後、承久の乱で、佐竹氏は手柄を立て、美濃国有智荘の地頭職を与えられた。北酒出氏は、その美濃の領地を管理するために、美濃へ移っていくこととなった。そのため城は廃城となったという。つまり中世の早い時期に廃城となってしまったために、あまり戦闘的な構造物を持つこともなかったのであろうと思われる。





軍司筑後守館(仲の坊東館・那珂市菅谷字仲の坊東)

 軍司筑後守館は、ときわ台団地のすぐ西側に隣接した部分にある。集会所の西側のガサヤブがすでに城域内であり、金網の西側には半分埋められた外堀が見えている。館の周辺間近まで住宅地が迫ってきており、高野氏館同様、破壊の危機にさらされている。あとどれだけ残存していられるのか、ちょっと心配である。
 周辺には、宮田掃部助館、平野寄居館、仲房館、地天館、平野小六館など、半径1kmほどの間に10近くの平城があり、城館密集地帯の中心に位置している。
 その形状も、那珂町の平城の典型的な様相を示しており、内部には方50mほどの主郭、それを囲むようにして、方100mあまりの2郭が置かれるという回字型の形状をなしていた。1郭の周囲には深さ3m、幅5mほどの堀、郭内からの高さが1,5mほどの土塁が巡らされている。2郭の堀は、宅地や道路が迫ってきているためにだいぶ削られてしまっているが、本来は1郭と同程度の規模を持っていたのであろうと推測される。
 館の南側半分は耕地化と宅地化によって失われてしまっている。しかし、北側半分と似たような構造であったかと思われる。
 虎口は1郭2郭いずれも西側に付けられている。しかし、これでは一直線に1郭に進入できてしまう。現在の虎口は、後世の改変によるものなのであろうか。これが往時のままであるとするならば、設計思想が古い、ということになるだろうか。
 ご多分に漏れず、堀は水路となって周囲に展開していたらしく、その名残が東南部分に残っている。東側の外堀のさらに外側に、もう1本の堀の名残らしきものが存在しているが、二重堀もこの地域の平城によく見られるので、そうした構造がここにも存在していた可能性がある。
 2郭の南側には軍司氏の氏神を祭った二つの祠が建っている。その傍にはその由来を記した軍司一族の記念碑も建っている。

 館主の軍司氏は、源頼朝にも仕えたという古い種族である。後には江戸氏に属するようになったが、山入一揆以降は佐竹氏に属していたために、江戸氏滅亡後も家名を保っていたという。那珂川よりも北側の、この地域の館主たちの多くは、戦国末期には実際には佐竹氏に属していたものが多かったのではないだろうか。
 比較的充実した遺構を残しているこの城館が、高野氏館のように失われてしまわないことを祈る。


1郭北側の土塁。高さは2mほどある。 1郭東側の堀。かつては水堀だったのであろう。
2郭の南側にある祠。軍司氏の氏神を祭ったものであり、脇にその旨を記した碑が建っている。 2画の郭の北側部分。民家がかなり迫ってきており、堀もだいぶ埋められてしまっている。
(以前の記述)軍司筑後守館は、仲の坊東館ともいい、ときわ台団地の南側にある。県道31号線の「仲の内」というバス停の300mほど東側である。全体にガサになっているが、東側の「那珂ボーイスカウト第一団」の資材置き場の辺りからが入りやすい。竹藪の中に入るとすぐに写真のような土塁が見えてくる。これが外郭部分であるかと思われる。15mほど進むとまた、堀と空堀が見える。土塁の高さは2mほど、堀の幅は4mほどである。主郭部は方60mほどの方形であるが、東南部分に横矢掛かりのような出っ張りがある。外郭部分は南側が消滅しているが、外郭を含めた規模は130mほどである。住宅地が迫ってきている割にはよく残っていると言っていいだろう。
 城主は軍司筑後守である。軍司氏は藤原冬嗣の子孫で、源頼朝に従って軍功を挙げ、大和国広瀬郡を賜り郡司と称するようになったという。その3代後の光基が筑後守に任ぜられ、以降、筑後守が郡司氏の伝統的な称号となったと思われる。この菅谷の地に郡司氏がいつ来たのかはわからないが、山入一揆の時には佐竹義瞬に属して、軍忠を立てて感状を賜ったという。さらに3代後の軍司土佐政光は佐竹義重に従い、水戸の江戸氏攻めに従って、30石を宛行われている。




玄蕃山館(那珂市福田字玄蕃山)

 常磐自動車道の那珂ICの東南側は山林と化しているが、その中に玄蕃山館が埋もれている。那珂ICの建設の際に資材が置かれたりして、かなり破壊が進んでしまっているようだが、それでも右図のような遺構はかろうじて残存している。
 現在見られる遺構は、50m×100mほどの長方形状のものだが、こういう単郭城館はめずらしい。本来はもう少し、複雑な区画があって、他の平城群と似たような形状をしていたのではないかと思われるが、現状からは理解できない。
 堀はそうとう埋められてしまったようで、全体的に「薄い」遺構になってしまっているが、印象的なのは、南西角の堀に水が溜まっていることである。おそらくこの部分に湧水点があるのであろう。山林化した中で、ここにだけ水が湧いているというのは、不思議な光景である。










南側の堀。だいぶ埋まってしまっているが、それでもなんとかトレースできる。 南西部の角には水が溜まっていた。湧水点があるのであろう。
(以前の記述)玄蕃山館は、常磐自動車道の那珂ICのすぐ東南側にある。山林化しているが、内部を歩いてみると、写真のような土塁と空堀があった。土塁の高さは1m、堀の幅は2mほどと規模は小さいが、直線的にきれいに延びている。しかし、内部はひたすら平坦な地で、この部分にしか遺構らしきものが見えない。以前、常磐自動車道のICの建設が行われた際、この場所は資材置き場になり、平坦にならされてしまったものだという。そのため、現在ではこの部分にしか遺構が見られなくなっているが、もともとは方形に土塁と空堀が取り囲んでいたという。
 永禄年間に叶野(うんの)玄蕃という者が居城としていたという。叶野氏はもとは海野氏といい、信州の出身であったが、ゆえあって当地に来たという。どういう故があるのか興味深いところだ。そのうち信州海野氏のことを調べてみよう。




東風谷(こじや)館(那珂市鴻巣字東風谷)

 東風谷館にはかつて二重の土塁と堀とが巡らされていたというが、現在では取り払われてしまったため見る事ができない。そこで那珂町史の研究」所収の往時の図を基にしてラフを描いてみた。



















 東風谷(こじや)館は、県道31号線と65号線が交差する所の東北500mの所にある。県道31号線が常磐自動車道の高架をくぐる所があるが、その場所の100mほど北側の水田中の微高地上である。現在は宅地となっていて、遺構は消滅したという。かつては100m×50mの馬蹄形をした単郭の周囲を土塁と空堀が二重に取り囲んでいたという。この土塁と堀は、高地整理が行われた際に取り払われてしまったという。宅地の中に土塁の一部が残っているというが、見学はしなかった。
 この地はかつて「ゆうがい山」と呼ばれ、周囲は沼や池が取り囲んでいたという。この周辺の水田は現在でもかなり泥が深いらしい。城主等歴史は未詳。。











小屋場館(那珂市鹿島字小屋場)

 鹿島地区の3200番地辺りに八幡太郎義家の遺跡である「鞍掛石」がある。(右の写真) この辺りは義家が陣を置き、東北へ出陣した跡であると言う。したがって、小屋場館というのは、陣の跡と言うことになる。と言うようなこともあり、きちんとした城郭遺構は見られない。この辺りは下の水田から比高20mほどの台地で、北側は断崖になっており、台地の上がり口は切通しのようになっているのだが、中世の遺構かどうかは分からない。また、付近には「木戸前」という地名があり、ここに古くは義家の館が置かれていたと言う伝説があるが、真実かどうかは不明である。












島崎館(那珂市後台字島崎)

 島崎館は、バードラインの東側、ヰセキ農機の向かい側辺りにあったという。しかしご多分に漏れず耕地整理が行われたようで、遺構らしきものは残っていない。写真の土手の段差が城館跡を示しているような印象を受けるが、城郭遺構なのか、耕地整理の際にできたものかはわからない。微高地上にあり、近くの東側と西側には小川が流れている。
 城主等歴史は未詳。











菅谷堀ノ内館(那珂市菅谷)

 菅谷堀ノ内館は、国道349号線沿いのの「ケーズデンキ」南側200mくらいの所にある。国道沿いというより、この国道が城址の西側の部分を削っている。かつては方形の中心郭と、その南側にもう1郭、さらに南や東側に、外郭線かと思われる堀と土塁の一部が残っているというが、よく分からなくなってしまっている。堀は幅4m、高さ1mの土塁を伴っていたというから、他の城郭群と同じような規模のものである。左の写真は竹やぶの中に見つけたものだが、堀の跡のように見える。内部はかなり荒れていて、ちょっと歩き回るのは無理であった。
 菅谷堀ノ内館は、大和田主水正光時の城であったという。「大和田氏系図」によると、大和田氏は北条氏の流れで(後北条ではない。鎌倉執権の北条氏である。)、下総国大和田を領して大和田氏を名乗るようになったという。確かに下総町には大和田というところがあり、ここには大和田城がある。
 江戸氏が滅びた後は佐竹氏に仕え、佐竹氏が秋田に転封になった時、城主の大和田氏は共に秋田に赴き、後に弟が残ったが館は廃されたという。









大学原館(那珂市向山)

 大学原館は、向山の常磐自動車道の南脇、現在、日本原子力研究所核融合研究センターの敷地の東端辺りにあった。核融合研究センターの敷地内なので、勝手に入ることもできず、詳細は未詳。大井大学という者の居館であったといわれる。



台坪館(那珂市鹿島字台坪)

 台坪館は、鹿島の愛宕神社の南400mの所にある。東に300mの所には西谷津池がある。地元の方も、館跡があることを知らなかったのだが、写真の白河内古墳群のある辺りの阿部家がその跡かもしれないということであった。この辺りは北の水田地帯から比高15mほどの台地の先端部で、切通しの入口なども見えるのだが、城郭遺構かどうかはっきりしない。その脇には物見台のような形の古墳があり、何かの祠が祭られている。この近辺には樹齢700年もの大銀杏があったというが、今では枯れてしまい、切り株しか残っていないと言う。館の詳細は未詳。














竹ノ内館(那珂市菅谷字竹ノ内)


 竹ノ内館藤崎(ふじさく)館ともいい城主は藤崎丹後守である。藤崎丹後守といえば、菅谷小学校の南側に藤崎丹後守館というのもある。この藤崎丹後は同一人物ではなく、こちらの藤崎丹後は、嫡子にあたるという。つまり藤崎丹後二世というわけだ。子供の藤崎丹後は、この地に移ってきて、新たに居館を造営したのだという。
 館跡の位置は、国道349号線と県道31号線との間で、スーパー「カスミ」の南西200mくらいの所である。しかし、市街中心部に近いせいか、すっかり宅地化されている。遺構は何もない。10年ほど前まではわずかに土塁と空堀が残っていたらしいが、現在は写真のような状態で、無くなってしまったようだ。例によって二重の堀をめぐらせた居館であったらしい。竹ノ内はおそらく「たて(館)のうち」がなまったものであろう。
 館の北方に「宮の池」と呼ばれる池がある。藤崎氏はこの池の水利権を掌握する領主であったかもしれない。












高野氏館(那珂市菅谷字中宿東)

 菅谷幼稚園の北東側一帯が山林となっているが、その中に方形の遺構が完存している。どこから入ってもすぐに遺構のある所に到達するが、北側の道路沿いから進入する辺りが、少し藪を切り払ってあるので、一番アクセスしやすいと思う。東側に小原神社、北側にも何かの小さな神社がある。
 見てのとおりの単純な構造である。方60mほどの方形の居館で、周囲には深さ3m、幅5mほどの堀が巡らされている。郭内には土塁が巡らされ、東南の角辺りに土塁の切れが見られる。ここが虎口であったのだろう。那珂市の平城は、水堀を何重にもめぐらせ、領主と水利権との関係を思わせるものが多いのであるが、ここは単純な方形であり、堀ももともと空堀であったようで、そういう意味では、那珂市の平城のなかでは異色な存在である。
 06年4月、那珂市にお住まいの城戸さんから情報をいただいて、高野氏館からすっかり木が切り払われ、どうやら開発のために破壊されてしまいそうだということを知った。きれいに方形に残っていただけに、消滅してしまうというのは残念な事である。那珂市の平城群は、破壊されているものが多いのだが、これでまた1つ、消滅してしまう事になる。

 その後、06年12月、高野氏館の発掘報告会が行われた。きれいに発掘された館は、以前の山林に埋もれた状態とはかなり異なっていた。
 全体に、生活面がかなり低いのが印象的であった。当時の地表面は50cmほども下にあったらしい。400年の歳月が経っているとはいえ、こんなにも埋もれてしまうものなのであろうか。
 堀も発掘前とは違ってかなり深くなっていた。場所によっては堀底は2m近くも埋まっていたようである。それに水が溜まっている! 以前は「空堀のようだ」と書いたのだが、発掘で堀底を掘っているうちに湧水点に達したらしく、水が自然に湧いてきたという。この城も水堀を巡らせた城館だったのである。こうしたことからすると、平城で「空堀を巡らせた」ような現状になっているものも、その大半は本来水堀であったということになるのかもしれない、と感じた次第であった。
 土塁の断面も見ることができたのだが、土塁も本来のものよりもそうとう低くなってしまっているようだ。発掘前は堀底から土塁の上までは3mほどの高さであったのだが、自然崩落した部分を加えると、本来は4mほどの高さがあったに違いない。
 虎口は旧状では東南の角に1ヶ所だけあった。というか、この辺りは堀も浅くなっており、特に埋まっている印象であった。発掘後の様子を見ると、ここは本来の虎口ではなく、後世に削られ、埋められてしまった部分であるようだ。確かに、虎口が角に寄りすぎている、という印象は図面を描いた当時も確かに感じていた。
 発掘では、Bの辺りに四足門のような跡が出ていた。おそらくここが虎口ということになるのであろうが、発掘前にはここにも土塁があったような気がする。多少低くなってしまっていたが、確かに土塁は全周していたと思う。となると、廃城後に土塁を盛られるといったことがあったのだろうか。もしそうだとすると、廃城後、牧として使用されていた可能性があるかもしれない。
 かつて全周していた土塁はすっかり取り払われていた。西の角には櫓台状の高まりAがあり、かつてそこには高野氏の氏神の祠が祭られていた。
 郭内には掘っ立て建造物のピットが数棟分、検出されていた。土抗がこれまたたくさん出ているのだが、これって、あちこちの城址で出てくるものだけれど、用途がはっきりしていないものである。貯蔵施設か何かであったのだろうか。一見、掘り炬燵の跡のように見えるものもある。建造物の中のものは、土間の中の野菜入れか何かで、現在の冷蔵庫のような意味があったのかもしれない。
 井戸の跡も多く、5ヶ所ほど見られる。素掘りの井戸であるが、ちょっと掘っただけで水が湧いてくるらしい。この地域は水には恵まれていたようである。

高野氏館の城塁と堀。深さ3m、幅5mほどである。 南西の角の土塁上に祭られている祠。
かつての堀と土塁。そうとう埋まっていたらしい。 かつての郭内の様子。
ここからは06.年12月の発掘後の様子である。北側の小原神社の方から入って行くとすぐにきれいに掘られた館跡が目に入ってくる。館跡の東側にも神社があり、小原神社はそちらだと以前は思っていたのだが、小原神社は北側の小さな神社であったらしい。 発掘された堀の跡。発掘前に比べると、鋭い薬研堀であったことが分かる。それにやはり那珂町の城らしく、水堀であったのである。地表面を掘り下げるとすぐにこのように水が湧いてきたのだという。
発掘前の状況が残されている部分。これほど埋まっていただとはまったく意外であった。こういうのを見てみると、やはり地表面観察だけでは往時の状況をうかがい知ることができないのだと痛感する。掘ってみないと分からないものなんだなあ。 土塁の断面図。何種類かの土が層になって重ねられているのが分かる。
郭内部にある井戸の跡。井戸は5ヶ所もあったらしい。 このような土抗がたくさん出ていた。これっていったい何だったのだろうか。
切り株がこのように並べられているのは、発掘前の地表面との高さの差を見せるためなのであろうか。それとも根っ子を引っこ抜くと遺構が破壊されてしまうためか。 西側角の堀の様子。この上の土塁上にかつては祠が祭られていた。
四足門らしきものの跡。ここが虎口であったらしいが、発掘前にはここにも土塁があった・・・・。 南側の角の部分はきちんと掘られていなかった。撹乱か何かがあって、掘ることができなかったのだろうか。
(以前の記述)高野氏館は、中宿東館ともいい、県道31号線の「那珂局入口」の信号の東南300mの所にある。総合福祉センターや菅谷幼稚園の北側である。山林化しているが遺構はほぼ完存している。その方向からでも入れるが、東側の小原神社という小さな神社の辺りから入ると、50mほど歩いたところで写真のような土塁と空堀が見えてくる。空堀は深さは土塁上から3m、幅は5mほどある。土塁は角の辺りではまとまった大きさになり櫓台のようになっている。70m四方ほどの単郭の居館である。土橋がどこにあるのかよくわからないが、南側の土塁の切れ目辺りが虎口だったのかもしれない。
 城主は高野丹後守であったという。郭内に城主の子孫の高野家が祭る祠があり、毎年11月15日の神事の際には「正一位稲荷大明神高野丹後守」という赤いのぼりを立てるという。高野氏の系図によると、高野氏の先祖は鎌倉時代、下妻の八田知家の孫家貞で、柿岡郷支輔城主となり高野氏を名乗ったのに始まる。その後なぜ当地に来たのかは不明だが、元禄14年の「延命院大檀那」に「軍司、高野、平野、大和田」とある。軍司、平野、大和田はいずれもこの辺りの豪族であり、高野氏も同様の勢力を持っていたらしいことが伺える。




田崎館(那珂市町田崎)

 田崎館は、県民の森のすぐ西側にあった。県道102号線の「田崎」というバス停の辺りから、県民の森に向かって東に入っていく。すると台地の下に小さな池が見えてくる。水草がたくさん浮いている直径50mほどの池である。その向こう側の低い台地に館があったらしい。しかし、現在ではこの台地は削られてしまっているので、遺構らしきものはほとんどない。しかし、台地の北側に降りていく方には高さ1.5m、長さ20mほどの土塁らしきものが見える。この土塁が北側に下がっていく通を切り通しのような形状に成しており、ここが虎口の跡のようにも見える。これが城郭遺構とすれば、唯一残された遺構と言えそうだ。城主等未詳。









地天館(那珂市菅谷字地天)

 地天館は、軍司筑後守館の東南300m、寄居城の北西300mの所にある。この辺りは館跡が密集しており、仲の坊館、軍司築後守館、地天館、寄居城が、300mくらいの距離を置いて、ほぼ等間隔に並んでいる。石尊大権現の北西の写真のガサの中が館跡らしい。手前の畑地の中にも、写真のような土塁状のものが見えるが、これが遺構であるのかどうかはっきりしない。また、この土塁の手前に用水路の溝があるが、これが堀の名残である可能性もある。山林の中には堀が複雑に組み合わされ、一部土塁も残っているが、旧状がどのようであったのかはわかりづらくなっている。
 城主は飛田氏であるという。飛田右角通高は、源義親の子孫で代々この地に居館を構え江戸氏に仕えていた。江戸氏が佐竹氏によって滅ぼされた後は佐竹氏に仕え、慶長7年、佐竹氏が秋田に転封になると帰農したという。











 

堤館(那珂市堤)


 堤館は「御所堀」とも呼ばれ、県道174号線と34号線が交わる交差点の東側400mの所にあったという。東海ゴルフ練習場の西300mの地点である。道路の開通により破壊されてしまったということであるが、写真のような土塁がある。これが遺構かどうかはっきりしないが、土塁の脇には溝があり、現在でも水をたたえている。これが堀の名残のように見えるのである。城主等詳細は未詳。














東崎(とうさく)館(那珂市福田字東崎)

 東崎館は東咲館・藤崎館とも言い、県道169号線の「後台駒潜」という信号の東600mの、県道北側の辺りにあったという。周囲の水田面よりも数m高い微高地上であるが、この辺りはすっかり宅地化されてしまっていて、遺構はまったく見られない。昭和30年代に兼営住宅ができた際にブルドーザーで整地してしまったそうだ。住宅が建つ前は、深さ1.5m、幅5mほどの堀をめぐらせた、方80mほどの単郭の居館跡があったという。また、城址の中央部に羽黒神社があったという。
 城主として圷(あくつ)縫殿之介と言い、その子孫の圷氏の庭に、羽黒神社は移されている。



戸崎鹿島城(那珂市戸崎字鹿島)

 那珂変電所の西側の鹿島神社が城址である。以前来た時に、神社の西側の塁がいかにも城らしく見えたのであるが、、全体として城としてのまとまりを理解することができなかった。そこでこれが本当に城址なのであるかどうかを知るために、ざっと図化して見ることにした。
 というわけで描いてみたのが右の図である。確かに神社の西側は一見堀のような形状をしている。しかし、よくよく見てみると、この部分、南側では堀状の形態から始まり、北上するにつれ、腰曲輪、ただの道、と形状が変化して最後は切り通しの堀底道のようになっている。確かに部分的に見ると堀のようでもあるが、全体としてみれば堀としての一貫性に欠けている。
 神社の北側と南側の切り通しの道路も一見名残とみえる地形ではあるが、これもよくよく考えてみると、単に道路に過ぎないようにも見える。
 それでも、東側の台地続き方向に明確な区画があれば間違いなく城址と見てよいのかもしれない。しかし、東側の区画はそれほど明確なものではなく、堀というのはためらわれる。
 北側の周辺部にも堀や土塁のように見える地形があることはあるのだが、これもどちらかというと、池に関連したものではないだろうか。
 このように考えてみると、ここはどうも城ではないような気がする。城館という明確な伝承や地名があるのならともかく、城郭のような地形だけを見て「茨城県遺跡地図」がこれを城として判断しているのだとするなら、それが誤っている可能性は高い。下の「以前の記述」では、確かに城に見えるように書いてあるが、こうして図を描いて検討してみると、どうにもアヤシイ・・・・・。
 城館類似遺構の可能性大である。










神社西側下の腰曲輪部分。確かに一部は堀状になっているが・・・。 南側の道路入り口。こう見ると、確かに堀切のように見えなくはない。
(以前の記述)戸崎鹿島城は、県民の森のすぐ東側の洞前池のさらに東側、鹿島神社のある所にあった。鹿島神社の境内は100m×200mほどあり、その西側には写真のように空堀の跡が直線的に残っている。埋まってしまったのか、深さは大してないが、きれいに長く伸びている。さらに西側の洞前池が、水堀の機能をも持っていたのであろう。神社の東側には、西側のような空堀はないが、下の地面とは1mほどの比高がある。下の地面はかつては沼沢地であったと思われ、この方面も水堀のようになっていたのであろう。神社の入り口に当たる南側は、切通しの道になっている。これがかつての空堀の跡であろうと思われ、虎口もこの方面であったろう。
 城主等未詳。




 

戸村城(那珂市戸字御城、北城、南城他)




中坪館(那珂市福田字中坪)

 中坪館は、福田の春日神社の東南500mの所にある。南西角には観音堂と墓地がある。東側には小さな神社がある。また、城址近くの東側と西側には小川が流れている。
 方80mほどの中心郭の周囲に環郭式に2郭が取り囲む、この地域に多い形式の居館であり、南側の土塁と堀が消滅している以外は遺構はよく残っているという。しかし、ご覧の通りのガサの中である。さすがにここから入っていく気になれなかった。南側の畑地を延々歩いていけば中に入れそうだったのだが、先日の雪で、この畑地がガチャガチャになっている。残念だが、内部探索は次の機会としよう。
 城主は福田和泉という者であったという。












仲の坊館(那珂市菅谷字仲の坊)


 菅谷仲の坊の正覚寺が館跡である。正覚寺の周囲にはかつては、方100mほどで、土塁と空堀が取り巻いていたというが、周辺の宅地化が進んだこともあり、現在ではそのほとんどが取り払われてしまっている。現在、遺構として見ることができるのは、正覚寺北西の角あたりの土塁と堀(幅3mほど)、東側の土塁の一部(写真)である。この土塁の内側が窪んでいて堀の跡のように見えるのだが、郭内に堀はおかしい。寺院の方に伺ったところ、これは池の跡であるという。(写真右側の部分) これはひょうたんの形をした池であったということだ。この池には「殿様が太鼓橋を渡して遊んだ」という伝承がある。
 「正覚寺略縁起」によると、9世紀頃、この地には領主壬生左近尉正春の屋敷があったという。壬生氏は後には関口氏を名乗るようになり、寺院を建立したという。現在残る遺構が、関口氏の館のために築かれたものか、すでにあった寺院が自己防衛のために築いたものかははっきりしない。寺院の創建が13世紀頃で、これがここが単郭の居館であることを考えると、すでに中世前期には寺院となり、防御施設が造られたと見るのがよいのかもしれない。









額田(ぬかだ)城(那珂市額田南郷)




原坪館(那珂市福田字原坪)

 原坪館も堀を三重にめぐらされた平城であったというが、宅地化によってだいぶ堀を埋められてしまっているために、旧状はすでにかなり失われてしまっている。図の中心の土塁と堀が残っている部分が1郭であったと思われるが、土塁は西側の部分にしか見られず、あとはすっかり崩されて埋められてしまったようである。特にこの部分の北側には大きな民家が一軒建っており、ここを造成する際に、1重目、2重目の堀はかなり埋められてしまったという。1郭部分の北側の民家との境目の段差になっている所が1重目の堀の名残であり、民家の敷地の中央辺りに2重目の堀があった。さらに北側の道路が三重目の堀であったらしく、道路に面した部分にやや土手が残っている。また、東側の墓地の辺りも郭内であったようだが、こちらは藪がひどく、廃材が山積みになっていたりして、何があるのかもよく分からない。ざっと歩いた所、この図のようにしか描けなかったのである.。もともとは方60mほどの1郭を中心に環郭式に三重の堀が巡るという構造であったと思われる。
 東側には墓地があり、たくさんのお墓が並んでいるが、中を歩いてみて気がつくのは、このほとんどが高橋姓であるということである。原坪館の城主は高橋土佐守という者であったというから、これらの高橋姓は城主と血縁関係のある人たちのものということができそうだが、これほどまでに同じ姓が密集していると言うのもめずらしい。一族集団の団結のようなものを感じてしまうのであった。












原坪館西側の土塁。幅広で櫓台のようにも見える。 北側に延びていく、西側の堀。
(以前の記述)原坪館は、「原屋敷」とも呼ばれ、県道31号線と65号線が交わる交差点の南200mの所にある。シェル石油のある通りから北側に土塁が見えている。こちらから進入を試みる。方60mほどの中心郭には写真のような土塁がめぐらされている。土塁は一部切れている所もあるが、かつては全周していたのではないかと想像される。那珂町の平城群の中では土塁の規模は大きいほうで、高さ2mほどある。土塁の外側は堀だが、これは他の平城群と同様、深さ1m、幅3mほどである。例によって、この郭を中心として、環郭式に堀が取り巻いている。北側と東側の一部では、堀は三重になっている。その他の部分は所々堀がなくなっている所もあるが、旧状としては3重の堀が環郭式に取り囲む館であったと思われる。進入口とした南側では、堀が一重しかないが、こちらにもかつては3重に堀が存在していたのであろう。特筆すべきは、土塁の内側にも幅50cmほどの窪みが見られることである。土塁の内側に、生活用の溝を通していた跡かとも見える。外郭も含めた全体の規模は方150mほどであろう。
 城主は高橋土佐という者であったという。高橋家に残る系図によると、高橋氏は源義光の子孫である武田氏の一族で、出羽高畠城の城主と成り高畠氏となった。その子孫の重高は建武年中、足利尊氏に属して功を挙げ、伊勢国高橋城を得たので、これ以降高橋氏を名乗るようになる。その7代目の長政は佐竹義重に仕えて武功を立て、現在の地を居城とするようになった。その後、石神城主小野崎氏に仕えたが、額田城主小野崎氏との抗争の中で、石神城が落城すると、浪人となった。しかしまた、佐竹氏に仕えて水戸氏攻めで武功を挙げたりしている。慶長7年、佐竹氏が秋田に国替えになると、高橋氏は秋田へは赴かず当地で帰農したという。




備前山館(那珂市飯田字備前山)

 備前山館は国道118号線とバードラインとが交差する「農免道路入口」の信号の南300mほどの所にある。城址の北には大洞池というため池がある。しかし、場所がよく分からなかった。やはり、二重の土塁と空堀をまわした居館であったらしいが、畑地や宅地となって整地されてしまったため、遺構はほとんど見られない。
 城主も未詳だが、備前山というからには「何とか備前守」といった人物の館であったのであろう。那珂町には「○○守館」といった名前の居館が多いのである。



桧山館(那珂市田字立石)

 桧山館は戸多小学校の西200mほどの所にあったという。県道102号線の戸多小学校の前の信号を西に曲がって、細い道を進み、小川を渡ってすぐ南側のあたりらしい。那珂川の左岸の水田地帯の真ん中である。遺構らしきものは何も見えない。小規模な平地の居館の跡であったらしいが、耕地整理で埋められてしまったものと思われる。桧山氏の館であったといわれる。詳。




平野小六館(那珂市菅谷字小六内)

 平野小六館は、小六内館ともいい、菅谷堀の内館の北600m、かしま台住宅の敷地内にあった。この住宅が建設されることにより遺構は消滅した。かつては水田上の微高地に110m×70mほどの規模で区画された堀があり、またその中央をさらに堀で区切り、連郭式に2郭が並んでいたという。
 城主は平野小六である。平野氏といえば、寄居城の城主である。小六は平野氏の祖であるというが、それ以上のことは分からない。平野氏が寄居城を築いて移る前の居館であったということなのだろうか。那珂町の平城群の中では、ここは単純な形式の部類に入る。城主が寄居に移って早い時期に廃城となったため、複雑な形に拡張されるまでには至らなかったということなのかもしれない。



藤崎(藤咲)丹後守館(那珂市菅谷字一の関)

 藤崎(藤咲・ふじさく)丹後守館は、一の関館とも言い、菅谷西小学校のすぐ南側にあった。しかし、この地は開発され、住宅街になってしまっている。遺構はその際にすっかり破壊されてしまったらしい。写真の辺りはまだ住宅は建っていないのだが、整地されたようで、何にもない。おそらくこの地域に多い、二重の堀を伴った居館であったと思われるのだが、旧状は不明である。城の北側には水田地帯があったというが、ここも埋め立てられて小学校の敷地となり地形そのものが変わってしまっている。
 城主はその名の通り藤崎丹後守である。しかし、彼についての伝承は何もない。ここより南側のひたちなか市田彦の寄居館の城主を藤佐久氏といい、常陸大掾氏の流れだというが、この藤崎氏もその系統に属するかと推測されるくらいである。
 小学校の北側に一の関公園があり、その中心には一の関池がある。この池はかつてはこの地域一帯の水田を灌漑するためのため池であったという。藤崎氏は、この池の水利権を掌握していた豪族であったと思われる。









坊ノ内館(那珂市横堀字坊ノ内)

 坊ノ内館は、県道172号線の「横堀地蔵」というバス停の辺りから西側に入り、400mほど進んだ所の北側にある。現況は山林である。平地の居館で、山林の中に土塁のような土手が見える。空堀等もあるのかもしれないが、内部まで入っては見なかったので詳細は未詳。先日の雪のために、途中がどろどろになっていたからである。さすがの私も、ここを進んでいく気には・・・・・・・・。














真土館(那珂市田崎)

 真土館は、檜山館の北300mの所にあったという。県道102号線の「田崎」というバス停の西150mほどの、小川を渡ってすぐ南側の辺りである。桧山館と同様、小規模な平地の居館があったらしいが、やはり耕地整理で埋められたのか、遺構は見られない。城主等も未詳だが、桧山氏との関連が考えられる。



南酒出城(那珂市南酒出)





宮田掃部助館(那珂市菅谷字高内)

 昭文社の地図でちょうど「高内」と書いてある辺りが城址である。この城にも隣接して北東部に池がある。やはり水利権と密接な関係のある居館であったのであろう。
 中央部の1郭は100m×60m程の規模であったかと思われる。やはり北東部(実際には東側の端であるが)折れが見られる。鬼門除けの構造であったと見てよいだろう。この郭の周囲には土塁と横堀が巡らされているが、土塁の高さは郭内からでも2mはあり、けっこう大規模な遺構に見える。1郭内部から南側にかけては水田地帯となって耕作化が進んでいるので、全体に南西側の遺構はあらかた隠滅してしまっているようである。現在残っている部分からしても本来は2重から3重の堀をめぐらせる構造だったと思われるので、全体の半分近くは失われてしまっているようだ。
 1郭の北西側は二重堀になっており、なかなか防御に念が入っている。北東の2の先にも近年まで堀があったらしいが、宅地化のために現在では失われてしまっている。ちなみにこの宅地のさらに北東側に池があり、ここまでが城域であったものと思われる。
 3の部分を挟んでさらに北西側に外堀があった。この部分は現状では深さが1mあまりとかなり狭くなっているのだが、Aの部分には図のような構造が見られる。図化してしまうと馬出しのように見えるのであるが、実際には長軸でも10m未満のごくごく小さな区画であるに過ぎない。弁天でも祀っていた小島であったのかもしれない。また、外堀は、Bのところで内側に曲がって折れていたようである。この部分が枡形であった可能性もあろう。
 このように宮田氏の館は、半分近く隠滅していながらも、そこそこ規模の大きな土塁や堀を残しており、かつての城域の広さを推し量る事はできる。








1郭に入る虎口と土塁。西側の堀は二重堀となっていた。 1郭外側の堀。右の城塁は、土塁であり、その右側に内堀がある。
1郭北東の城塁の折れ部分の土塁を内側から見た所。鬼門除けであろうか。 1郭北側の土塁を郭内から見た所。郭内からでも2mほどの高さがある。1郭内部は水田となっているようだ。
(以前の記述)宮田掃部助館は、高内館ともいい、菅谷東小学校の東北300mの所にある。城址の南西角に素鵝神社がある。この神社の北側には溝があるが、これが水堀の跡のように見える。この溝沿いに道があるがそれに従って歩いていくと平行して山林の中にも堀があるのが見える。二重堀なのであろうか。注意を要する地形である。途中、中に入れそうな所があるので進入してみる。50mほど進むと、写真の土塁、空堀、土橋を伴った虎口が見えてくる。堀の深さは土塁上から3、4mほど、幅は6m、空堀といったが、かつて水が入っていたような痕跡もある。土塁は、空堀の外側にもある。佐竹系の城郭によく見られる工夫である。
 この先が主郭部であると思われる。宅地化されているために西側と南側は整地され土塁がなくなっているが、北側と東側はよく残っている。特に東側の土塁は高く、堀も深い。郭の規模は110m×80mほど。その周囲を環郭式に2郭が囲む二重構造の城館である。この辺りによくあるパターンの縄張りだ。外郭部分をも含めた城郭規模は方200m以上あったと思われる。城址の東北に掃部溜と呼ばれるため池があるが、この池の水を利用して、堀に水を引き、水田の感慨をもまかなっていたのであろう。
 城主は宮田掃部助である。日立市の「宮田家譜」によると、日立宮田館の5代目宮田通豊の弟通宗といい、掃部助を名乗り菅谷に住んだ」という。この掃部助こそ、この城館の主であろう。




向坪館(那珂市福田字向坪)

 向坪館は場所がよく分からなかった。福田地区の東端(中坪館の東北500mのあたりで小川をはさんで中坪館と向いあっている。)を向というので、この辺りにあったと思われる。宅地や畑になっており、土塁は崩されて残っていないが、堀の跡が溝となって確認できるという。郭内と思われる部分を「うちご」と呼んでいる。戸崎にも「内後館」というのがあるが、「うちご」というのはこの辺りで城館を示す言葉なのだろうか。
 城主は海野日向守であったという。海野氏と言えば、玄蕃山の城主も叶野(うんの)氏であった。叶野氏ももとは海野姓であったというから、ここの城主と同族であろう。海野家に所蔵されている寛政3年の「先祖書上」には「先祖甲州浪人海野日向と申し当村え落ち付き、堀囲み仕り、居り候」とあるという。



本米崎館(那珂市本米崎字加納)

 本米崎館は、本米崎小学校のすぐ北側にあったらしい。館跡の中央部を常磐自動車道が通っているので、遺構は失われてしまったらしい。この台地の東側の斜面は特に急峻で、館跡のような地形をやや感じることはできる。小学校の脇に古い祠があったが、城となんらかの関係があるものなのだろうか?城についての詳細は未詳だが、加納衛門という者の館であったといわれる。















森戸館(那珂市額田北郷)

 森戸館は、国道349号線と県道62号線が交差する信号の北500mのところにある信号のすぐ北側にあったという。しかし、この場所は現在では畑地となり、遺構らしきものは見えない。城主等も未詳。






要害城(那珂市町門部字ゆうがい)

 下の「以前の記述」を見れば分かるように、前回来た時には、どこが遺構であるのかさえも分からなかった。しかし、北緯36度付近の中世城郭の記述を見て遺構が残存していることを知り、再訪してみたくなった。先達はあらまほしきものである。広大な台地の中央部あたりなので、場所を探すのがちょっと分かりにくいが、県道104号線の北側で、ちょうど、旧瓜連町との境界付近である。
 現在、明確に遺構を残しているのは、台地北端の1の部分であり、ここには方60mほどの土塁で区画された郭が見られる。現状では東側と南側の土塁が耕作化によって失われてしまっているが、北と西側は残存している。特に北側の土塁は規模が大きく、堀底からの深さは3mほどもある。西側の土塁の外側には堀は見られないが、北側には堀が見られ、土塁の外側が直接台地の斜面と接続するのではなく、横堀を配置するような形状になっている。
 1の東側にも台地は細長く延びており、その先に古墳がある。これも城郭関連の施設として利用されていたであろうか。
 これだけ見ると、単郭方形の館跡であったかと思えそうなのであるが、実はこの台地は、この館の東側部分で谷津が入り込んで、幅がぎゅっと狭くなっている。この部分を閉塞するかのようにかつては土塁(堀も?)が延びていた(赤いラインで示した部分)。その残決は現在、台地南端のAだけがかろうじて残っているが、現地で伺った話によると、「かつては北の台地端まで延びていたのだ」ということであった。もっとも、その方も直接は見たことがないらしく「詳しいことは年寄りにでも聞いてみるしかあんめえ」とのたまっていた。かといって、その方も十分老齢に見えたのだが、もっと年寄りに聞けとは、なかなか難しい注文である。おそらく堀も伴っていたはずであり、そのことも現地の方に伺ってみたのであるが、やはり「年寄りに聞いてみな」としか言われなかった。
 要するに台地が一番細くなるこの場所には街道閉塞のための土塁(堀)が置かれていた。まさに街道を扼するための「要害」であったわけであり、稲敷の街道閉塞堀切群と構造的に似たものである。ただし、こちらには番所の機能を有していたと思われる方形館が付属しているという点に特徴がある。
 北緯36度付近の中世城郭の図を見ると、方形館は複数併設されていたらしい。図の2の民家の周辺は、微妙に段差が残っており、その規模からしても、1と同じ程度の方形区画であった可能性はあるだろう。しかし、現状からは明らかではない。

 長弾正という者の城であったという伝承があるようだが、この人物について詳しいことは分からない。実在の人物だとすれば、この関門の番を任されていた人物だったということになるだろうか。




古墳の辺りから西側の土塁を見たところ。これが1郭の内部となる。土塁は西側部分だけが完存といった感じである。ただし、外側の堀は存在していない。 北西部の角辺り。この辺の遺構は立派で、北の外側は一部堀も伴っている。高さも3mほどある。
1郭から、南側の2の民家の方を見たところ。この民家部分もかつては居館形態をしていた可能性がある。 南側にわずかに残る土塁の残決。これがかつては台地の北端まで延びていたという話である。
(以前の記述)要害城は、県道104号線の瓜連町との境界辺りにある。地元では「ゆうがい山」と呼ばれている。「ゆうがい」すなわち「要害」がなまったものである、ということで城址の比定地とされているようだが、見たとおり、まったく平坦な畑地で、山はおろか遺構のかけらも見当たらない。あるいはこの畑地が造成される際に破壊されてしまったのかもしれないが、今となっては旧状はしのべない。城主等歴史も未詳である。




寄居城(平野館・那珂市菅谷字寄居)

 昭文社の地図を見ると県道31号線の寄居十文字の西側に「寄居」という地名が掲載されているが、この「寄居」とある辺り一帯が城址である。南西側には「堀ノ内」というバス停もあり、地名からしても城館の存在をうかがう事ができる。それにしてもこの県道31号線、交通量が多い割には道がとても狭い。車がやっとすれ違える程度の道を、みんなビュンビュン飛ばしている。歩道もなく、歩いていてもけっこう怖い道である。
 集落の北側の墓地のあるところが1郭である。規模は長軸120mくらい。その東側半分が墓地となっている。郭の中央部に土塁があって東西に2つに区画されており、西側は水田となっている。ただし、この中央部の区画は後世のものかも知れない。1郭の周囲には堀と土塁が巡らされているが、特徴的なのは北東の角に折れが見られることである。これは鬼門除けであったものだろうか。宮田掃部館にも同様の構造が見られ、この地域の城館の特徴の1つであった可能性もある。
 2の部分の西側の堀は土橋をはさんでさらに南側に延びている。実際には県道の南側辺りまで城域として堀に囲まれていたようだが、現在では図にある堀以外はほとんど隠滅してしまっている。本来なら城域の広さは500m四方ほどはあったかもしれない。
 そのさらに西側に外堀がある。こちらは直線的ではなく微妙に曲がった堀である。しかし横矢の折れというほど明確なものではない。この外堀は3の北側の堀となって続いていくが、それ以外にも4の周囲には水路のようなかなり小規模な堀がめぐらされている。4の北側は現在水田地帯となっているが、おそらくかつてはこちらに水源地があったのであろう。これらの堀は本来は、そこから水を引いて、生活用水などにも使用していたのではないだろうか。現在でも堀底は湿っていて、堀底を歩いていると足がぬかるんでしまいそうな感覚がある。。
 平野氏については下の解説を参照してください。







寄居城の外堀。深さ3m、幅5mほどで、かなり長く延びている。 南側から見た1郭部分。東側半分は墓地になっている、。この日風が強く、無数の枯葉が舞い散っていたのだが、それが日の光を受けてキラキラきらめいていた。
墓地の中央部にある土塁。これは後世のものだろうか。 1郭南側の土塁。外側にあったはずの堀は埋められてしまっている。
1郭北側の城塁の折れ部分。鬼門除けの一種であろうか。 5の郭との間にある土橋と虎口。
(以前の記述)寄居城は平野館とも呼ばれ、県道31号線の「堀の内」というバス停の北側一帯である。県道から、すぐ外郭の土塁や堀が見えている。この県道脇まで続いている堀と土塁は(写真)、幅3m、高さ2mほどで、北側から東側にかけ200m以上にわたって続いている。これから想像すると、外郭部の規模は方200m以上で、かなりの規模を持った居館であったということがわかる。
 城の中心郭は現在墓地となっている一帯であろう。この郭は50m×100mほど。周囲には堀がめぐらされ(南側正面の堀には現在でも水がある。)、土塁も完存している。これを中心として二重から三重に環郭式に堀をめぐらせていたと思われる。東側と南側は整地されて失われているが(まったく平城は整地で消滅させるのが簡単であるらしい)、大体の形は分かる。この堀は縦横にめぐらせれており、水路としての役割も持っていたのではないかと思われる。これはこの町のほとんどの城館に言えることである。寄居城の構造は那珂町の他の平城群と似たようなものであるが、面積は最も広く、土塁や堀も規模が大きい。
 城主は平野氏である。平野氏は源満仲の弟満政の子孫で、江戸氏に仕えてたびたび戦功を挙げたという。戦国時代の城主として平野豊前重資という者の名が伝えられている。江戸家臣の中でも平野氏は重鎮だったらしく、江戸氏一族の娘「おちへ」が平野家に嫁してきている。天正16年(1588)の江戸氏と大掾氏との府中合戦では、平野豊前重友の弟出羽のこ玄蕃充通宗が戦功を立てて江戸重通から感状を与えられている。また、その後の額田城攻めでは、深田に畳を敷いて攻撃したという伝承がある。
 天正18年、江戸氏が佐竹氏に攻撃された時、平野一族は水戸城に入り佐竹氏と戦ったが、水戸城は落城、平野氏の一族もことごとく討ち死にしたという。








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